アメリカ文学の代表とされる「グレート・ギャッツビー」は1925年の刊行、5度の映画化、そして日本語の翻訳は10回に及ぶ。
ロバート レッドフォード 主演の映画(1974年版)を見たのは、何時だったか…?
(多分…?)20年以上前に見た時の印象(の記憶)は、1929年の大恐慌以前・未曾有の好景気に沸くアメリカ社会における、「一夏の華やかで悲劇的な物語」…の筈だった。
今年になって、レオナルド ディカプリオ 主演の映画(2013年版)を、何気なくAmazon Primで見た。そこで感じたのは、「あれ…!」という違和感…。
1974年版の映画は、レンタルビデオで見たと思うのだが、2003年以前のPCメモリー損壊の為、記録がないのではっきりしない。改めて、中古DVDを購入し視聴した。
そして、村上春樹が「重要な意味を持つ3冊の文学作品」の筆頭に挙げ、60歳になってから取り組もうと溜めていた、2006年の翻訳「グレート・ギャッツビー」を改めて読んでみた。
その結果は、「物語の印象」が嘗ての記憶と全く違っていた。…と謂うより正直、自分の鈍感さと浅薄な思考力を思い知らされ「愕然」とする。
20世紀最後の10年間に於いては、「シングル・ファーザー」などと言う呼称も一般的ではなく、「母子家庭」に相当する社会的認知も公的支援も皆無だった。 そんな時代そんな境遇の自分が見たのは…「貧しい境遇から身を起こし、金満的成功を納めて尚、想い続けた女性に対する願いが叶わず、悲劇的な結末を迎える青年の、教訓めいた寓話」だった。大恐慌の教訓に学ばずに陥った「日本のバブル崩壊」を嘲笑い、「貨幣経済:万能」を謳歌する社会への反撃材料としたのかもしれない。
しかし、そんな薄っぺらな物語を、村上春樹が「カラマーゾフの兄弟」よりも重要とするのは合点がいかない。いろんな読み方いろんな感想が成り立ち、時には真逆な評価が乱立することは、歴史の波風に耐え優れた文学の地位を得ている証左かもしれない。そもそも何故「グレート~」なのか?(蛇足:邦題の「華麗なる~」には違和感が拭えない。)物語の語り手「ニック」が「ギャッツビー」に投げかける最期の言葉、「誰も彼も、カスミみたいなやつらだ。みんな合わせても、君一人の値打ちもないね。」(村上春樹:訳)が、その答か…?
衰えつつある自分の思考速度と精度を省みず、今時点の感想を書き記しておきたい。
「生きる事に意味など無い」とする答えに、一定の共感と魅力を憶えながらも、未だに「人は何のために生きるのか…?」の自問が、消えることは無い。
成功し夢を叶えることと、失敗し挫折することに、どれ程の違いがあるのか…? 成功は心を満たすのか…? 挫折は心を打ち砕くのか…? たまたま得た「危うい成功」の浮ついた気分に居心地の悪さを感じ始めたのは、もう40年も前のことだ。失敗や挫折を真っ当に悩むことは、人生をより深く生きる道すじ、そのものかもしれない。「深い悲しみ」に沈むことは、「危うい成功」にも増して、満たされた心を得る為に必要な事かもしれない。
「グレート・ギャッツビー」の物語は、その感慨を後押ししてくれたような気がする。
著者の「フィッツジェラルド」と妻の「ゼルダ」にも興味は尽きないが、それはまた別の話…。
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