「犬を飼う」と云うこと。(その1) #山暮らし #犬

 1994年:美流渡移住2年目、小学生だった娘達の為に、初めて犬を飼った。 保健所に頼んでおいた保護犬を見に行き、子供が気に入った日本犬らしい顔立ちの雑種の子犬を連れ帰った。置き去りにしてきた、兄弟の2頭に「ごめんね…。」と言い残して…。

帰り路の車中で、下の子が付けた名前は「チョビ」。

1995年秋(2歳)、民家から離れた丘に登り、リードを開放すると、山林を自由に駆け回る。「チョビ~帰るよ~」と呼ぶと、足元にすっ飛んでくる。一度だけ、何かを追いかけて森に分け入ったまま30分以上帰ってこないので一旦諦め、先に帰った数時間後には自分の小屋の前で水を飲んでいた。

多忙なシングルファーザーに代わり、子供たちの良き遊び相手になってくれた。それから数年後、放し飼いが厳しく規制され、同じことはもうできない。

2002年、凛々しく成長した8歳のチョビ。こんな狭い粗末な小屋で、豪雪地帯の冬を逞しく、家族3人と一緒によく生き抜いてくれた。

  2011年(17歳)亡くなる2日前、工房の薪ストーブの傍らで、うたた寝…。 心配して近づくと、もたげようとした頭が力尽き、床板に音を立てて落ちた。

 2011年11月26日永眠:岩見沢の浄安殿で火葬した遺骨は、我が家に今も安置している。

 それから、ず~っと考え続けている。チョビは犬として幸せだったのだろうか? 現代社会において、犬を飼うということは、人間の「身勝手」以上の意味があるのだろうか? 

 犬にとっての幸せな生涯を、自分なりに想像してみた。それは、狼が家畜としての犬になる過程を想像することだ。動物の専門家による研究結果としての結論があるのかもしれないが、家族として17年を過ごした「チョビ」に成り代わって考えてみたかった。 

  多くの仲間と一緒に、人間と共に働く場所を持つ「犬達」の、生き生きとした光景が目に浮かぶ。例えば牧羊犬とか、山岳救助犬とか、狩猟犬とか…。 

  野生を離れることを選んだ(狼)犬が安心して生きる道は、人間との共生以外には無いとも思う。

結論は出ない、解かる訳がない。 

 自分の年齢を考えても、二度と犬を飼うことは無いと思っていたのに…。 

ミルトマップ木工房

心やさしき、人々へ~。 あなたの椅子とテーブルを、ミルトの森から~。

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